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源義経は、鎌倉幕府を開いた源頼朝の弟で壇ノ浦の戦いに代表される数々の源平の合戦で大活躍をした武将です。幼少名の『牛若丸』と言えばピンと来るかもしれません。義経は、平家を倒しながらも兄頼朝に追われる身となり、奥州藤原氏を頼って平泉へ逃れるも文治5年(1189)
4月に藤原泰衡の急襲を受け、衣川館で30年の生涯を閉じた・・と史実にはありますが、実は義経は生きていて、密かに平泉を出て北へ向かったという伝説が今も根強く残されています。弁慶ら腹心の部下数名と青森から船で津軽海峡を渡り、北海道各地に足跡を残しながら、最後は大陸に渡りチンギス・ハーンとなった、実はチンギス・ハーンは源義経だった・・!!という説まである程です。 |
そんな『義経伝説』は岩内町にも数多く残されています。
■「来年」=雷電?
津軽海峡を渡り蝦夷地にたどり着いた義経一行。しかし雷電の険しい山間で当時のアイヌの首長チパの襲撃に遭い、
囚われの身となってしまいました。 勝利をおさめたアイヌの人々は祝いの席を開きましたが、突然祭壇の「イナウ」(木の棒の一部を削った、神前にお供えするもの)が倒れてしまうハプニングが。
「これは、 義経を捕らえた事による神の怒りだ・・!!!」
そう思ったアイヌの人々は、一転義経らを手厚く介抱することにしたのでした。
傷も癒え出立の機会をうかがう一行。その間、いつしか酋長チパの娘メヌカには義経に対する恋心が芽生えていました。
いよいよ出発の朝。 泣きながら別れを惜しむメヌカに義経は
「来年はきっと帰る、それまでの別れだ」と慰めます。
メヌカは「来年まで待っているわ」と答えるのが精一杯でした。
らいねんは、らいねんまで・・・2人の交わしたそんな言葉がいつしか「雷電」の地名になったということです。
メヌカは、約束から1年経っても戻らない義経を慕い、最後は刀掛岬近くの「 不落の洞窟」で身投げしてしまいます。それが「メヌカ岩」になったといわれています。また、和人の女性に嫉妬するメヌカの思いにより、以降神威岬の神威岩より北には和人の女性は行けなくなってしまったそう。和人の女性の乗っている船もよく難破したとか!?
■刀掛岩の由来
まだ囚われの身となる前の話。雷電岬にきた一行は岬を越えた所でひと休み。
弁慶は腰の刀が邪魔になり、近くの岩をヒョイとひねって刀を掛けました。その岩が今の「刀掛岩」となったという話。
また、雷電にしばらく滞在している時も、弁慶はよくこの近辺で磯釣りをしたと言われています。この時もこの岩に刀を掛けたといいます。
■薪積岩
雷電までやっとの思いでたどり着いた義経一行。しかし岩内は日本海沿岸の町。4月といえど追われる身には潮風も一段と厳しく冷たく感じられたことでしょう。一行の暖をとるため、弁慶は薪を切っては積み上げ寒さに備えました。
薪が化石となったものが薪積岩になった・・・と伝えられています。積まれた薪はきっとたき火、いやキャンプファイヤー?
■不落の洞窟は悲恋の穴
刀掛岬の南高さ約16m、幅4m、奥行き約80m程の洞窟があります。洞窟への交通は船のみである事から、アイヌの首長チパが武器や財宝を隠したのではないか?と伝えられています。
また此処は前述の通りチパの娘メヌカが約束の一年を過ぎても戻らない義経を慕い身投げした所で、別名「悲恋の穴」とも呼ばれています。
■笹りんどうの隠し彫り発見!?
昭和63年5月、ニセコ岩内スキ−場のレストハウス前斜面にある大きな石に、何と源氏の家紋といわれる『笹りんどう』が隠し彫りされているのが発見されました。
これこそが蝦夷岩内に義経一行が訪れた動かぬ証拠!?
現在は一目でわかるように薄い青色で着色しているそうです。
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